Our Group 古河機械金属

銅山経営に端を発し、日本の成長とともに発展してきた、140年以上の歴史ある古河機械金属グループのルーツと、“社会の筋肉”として産業基盤を支え、街のあちこちで活躍する製品群を、簡潔にわかりやすく紹介します。

1875年 - [明治8年]

当社発展の礎は時代の産業
「銅山経営」への着手。

当社の創業は、古河市兵衛が草倉銅山(新潟)の経営に着手したことから始まります(明治8年)。2年後、足尾銅山(栃木)の経営権を得て(明治10年)、鉱山業への専念を決意します。
世界が「電気の時代」を迎えようとしていた当時、銅山経営は、電機関連機器に不可欠の素材である銅を産出する基幹産業でした。

創業者 古河市兵衛

1884年 - [明治17年]

欧米の先端技術を積極的に導入
足尾銅山、産銅量日本一に。

足尾銅山では、画期的な技術を次々と導入。作業効率の向上と、大鉱脈の発見もあり、産銅量が日本一となります(明治17年)。一時は日本の銅の半分ほどを産出し、足尾での成功は当社の発展の基盤となりました。
また、足尾での取り組みは多くの先進技術の実験的役割も果たし、日本の近代産業の発展に大きく貢献したのです。

当時の足尾銅山

1900年 - [明治33年]

足尾銅山に機械工場設置、
機械部門へ進出

足尾では明治18年に、さく岩機(輸入品)の使用を開始しました。従来の手掘りに比べ、一か月の掘進距離は3倍にも達し、効率を向上させると同時に、さく岩夫の負担も大きく軽減することになりました。
こうした機械の修理のために工作課を設置、明治33年には機械工場を設置して、機械部門への進出を果たします。

足尾電気機械修繕工場

1914年 - [大正3年]

日本初の「さく岩機」制作。
後のさく岩機事業の礎とする

輸入さく岩機の大量使用で機械化が進んだ足尾。故障修理や破損部品の製作・充足を行う過程で、日本人の体形に合ったさく岩機への改良の要望が芽生えます。
大正3年、足尾の機械方が手持式のさく岩機を考案。これが国産さく岩機の第1号となり、今日、世界に知られる古河のさく岩機事業への、第一歩を記すことになります。

輸入さく岩機による掘削

コラム

「安全第一」のルーツ、足尾の「安全専一」?!

鉱業所各所(坑内など)に見られる『安全専一』の掲示。まだ“安全第一”という言葉がなかった大正初期に、足尾で掲げられた。アメリカで提唱された“セーフティファースト”という標語を、「第一」より「専一」の方がわかりやすいと、当時の所長が考えた。
全国に先駆けた安全運動で、当時の古河の先進性がうかがわれる。

1954年 - [昭和29年]

ポンプ製造の歴史は大正に。
鉱山・炭鉱の自家用から

鉱山・炭鉱で、掘るのと同様に重要なのが、石・泥・金属などの固形物を含んだ水を外部に排出する作業です。この作業に必要な自社用ポンプの製造に着手したのが大正期。昭和29年には市販を開始しています。

当時の無人ポンプ室

1962年 - [昭和37年]

製錬時に発生の副産物を有効利用。
高純度金属ヒ素の研究開発

製錬時に生じる副産物を利用できないか。その取り組みのひとつが、ヒ素の有効利用でした。ヒ素は半導体材料として注目されはじめ、当社は昭和36年に研究を開始し、37年に99,999%の高純度金属ヒ素を開発、販売を開始しました。今では最先端技術材料として欠かせない存在に。電子材料事業の看板製品として貢献しています。

高純度金属ヒ素

1987年 - [昭和62年]

(株)ユニックの買収。
トラック搭載型クレーンの代名詞に

新たな分野として、昭和62年、(株)ユニックを買収。輸送と荷役作業を一台のトラックで可能にした、作業効率化に画期的な製品群を陣容に加えました。
その後、時代の要請に応じた新製品開発を進め、環境に配慮した、低燃費・低騒音の「UーCanECOシリーズ」で省エネ大賞を受賞するなど、進歩を続けています。

輸送と荷役作業を1台で

1989年 - [平成元年]

「古河鉱業株式会社」から
「古河機械金属株式会社」へ社名変更

銅山業で創業した当社は、100年を越える歴史の中で、時代の要請に応え、その技術と製品を多様に発展・展開させてきました。
平成元年、古河機械金属へと社名を新たにしています。