足尾銅山は1610年備前楯山で二人の農民「治部(じぶ)と内蔵(くら)」によって発見され、江戸幕府直轄の銅山として栄え、その銅は東照宮、芝増上寺や江戸城の屋根や、銅銭「寛永通宝」にも使われました。
1877年に廃山同様になっていた足尾銅山を古河市兵衛が経営するようになり、日本の鉱山としては最先端の技術を取り入れ、日本の産銅の約半分を生産するに至り、東洋一の銅山と呼ばれるようになりました。
古河掛水倶楽部は、足尾銅山の隆盛期に貴賓客の接待や宿泊施設として利用されていた迎賓館です。
大正初期に改築され、外観は洋風、内部は和洋、それぞれの様式を用いた2階建ての建造物で、鹿鳴館や古河庭園などを設計したジョサイア・コンドルの影響を受けたといわれています。
館内には国産で最も古いとされるビリヤード台のある撞球場や日本間など、貴賓客をもてなす設備が揃っています。
当倶楽部は2006年に国の登録有形文化財として登録されました。
応接室
腰板や天井部に模様が施された部屋には、油彩「波」・「赤城山頂より」・「橋のある渓谷」、を飾っています。現在は古河掛水倶楽部に来訪されるお客様の応接室として使用しており、来賓時にはご記帳をいただいております。
撞球場
国産で最も古い時代のものといわれている2台のビリヤード台や、当時、古河市兵衛が使用していた机を展示しています。また、1914年からの芳名録や、銅の生産を飛躍的に伸ばした第四代抗長である木村長兵衛を称えた「木村長兵衛功業の碑」(拓本)も展示しています。他にも、三代目社長の古河虎之助とゆかりのあった、西郷隆盛の肖像画を展示しています。
食堂
正面にマントルピースや1924年にドイツで制作されたピアノ、ナラの木で造られた食卓が置かれています。足部に薔薇の模様が施された中央の食卓は、伸縮式で20名が一同に会することができます。当時では珍しいフランス料理をフルコースで出していました。食器棚には象眼で草木・果物が描かれており、壁には足助恒子画の「落ち葉拾い」が掛けられています。
2階日本間
2階には洋寝室3部屋と和室3部屋があり、計45畳になる和室では大宴会が催すことができました。床の間には古河市兵衛の壁掛、中央の日本間には渋沢栄一の書「人間貴晩晴」・「以友輔仁」が飾られており、とても貴重なものとなっております。古河市兵衛は、渋沢栄一と古河創業以前から付き合いがあり、終生の友であったとされています。
掛水重役役宅
掛水重役役宅は、足尾鉱業事務所の掛水移転をきっかけに、所長や副所長などの役宅として建設されました。銅山住宅群やその敷地を含め、ほぼ建設当時の状態で現存しており、全国的に極めて珍しいとされています。特に所長宅の敷地は約100坪あり、接客部分と居住部分が分かれた造りで、当時としては最先端の住宅建築でした。2010年には掛水重役役宅6棟と付属の変電施設建屋1棟、倉庫2棟が栃木県指定有形文化財となりました。
鉱石資料館
足尾鉱山で採掘された黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱、水晶等主に、国内鉱石、海外鉱石で採掘された銅鉱石を中心に約200点を展示しています。当資料館は、1911年に幹部社員向けに建設された社宅を使用しています。第2次世界大戦の時には「古河家」の疎開に使用された事から、庭には防空壕が造られています。
電話資料館
明治・大正・昭和期に足尾銅山で使用していた電話機を展示しています。1876年、ベルが発明した電話器は1877年に日本へ輸入され、1886年に民間で最初の電話機として足尾銅山の坑内外で使用され始めました。1890年には、ドイツのシーメンス社より坑内電話機を購入し、電話網を整備しました。1965年には、富士通信機株式会社の自動交換機を導入。その後、携帯電話などの発達により、2000年にその役目を終え、2016年には栃木県指定有形文化財となっています。
赤レンガ倉庫
レンガ倉庫は足尾鉱業所事務所の付属書庫として建設されました。足尾鉱業所事務所は、本山、掛水、通洞と三度に渡って建設されましたが、いずれも現存してはおらず、唯一、付属書庫のみが残っており、当時を偲ぶ唯一の貴重な遺構となっています。足尾でも数少ない明治期の本格的な赤煉瓦建築で、2016年には国登録有形文化財となっています。
お土産コーナー
お土産コーナーには、銅素材から作られたスポンジやたわし、安全専一がデザインされたTシャツなどを販売しています。他にもオリジナル商品を多数販売しておりますので、古河掛水倶楽部にお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。